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2018/09/11

Norikazu Iwai

伊藤公人さん……永眠

伊藤公人さん……永眠

突然の訃報だった……2年前に引退した伊藤公人さん(埼玉40期・引退)が9月2日、都内の病院で亡くなった。享年61歳、死因は分かっていない。あまりにも早い死に激闘を繰り広げた選手仲間、関係者、ファンは涙にくれた。筆者は何度か話しをする機会を得たが、いい意味での威圧感を感じる選手であった。知人の記者からは「公人さんのことを悪くいう人間はいない」と、聞かされたこともある。

特別競輪での優勝こそないものの、存在感という点では歴史に残る名レーサーだっただろう。20代の頃、若くしてC型肝炎を発症してしまい、S級から当時の最下層ランクであるB級2班にまで陥落した。闘病生活は約3年に及び、ほとんどの人が「復帰は無理だろう」と、思ったそうだ。不屈の闘志、口で言うのは簡単であるが、戦線に復帰して2年後にはS級に戻った。バンクに戻ることさえ難しいと、言われていたのにトップランクに返り咲いたのである。特別競輪の決勝にもたびたび進み、闘志あふれる走りはファンを魅了し続けた。特に1993年の立川ダービー決勝では大竹慎吾(大分55期)と、これぞ“競り”という大立ち回りを演じた。失格にこそなったが、その熱い走り、マーク屋としての意地を見せつけ、高く評価された。
2006年には49歳8ヶ月という、当時のS級最年長優勝も果たし、51歳になってもS級1班に君臨。大病を煩い、激しいトレーニングが制限されていた中で結果を残したのは単純に自転車が好きということと、研究熱心だったからであろう。セッティングに関しては、右に出る者がいないと言われるほどだった。埼玉県の選手は勿論、他県の選手までもが教えを請いにきた。伊藤さんはレースが終わっても長い時間、自転車と対峙(たいじ)。感触を確かめるため、狭い検車場を他の選手の邪魔にならないように走っていた。これは昨年12月に引退した後閑信一氏(東京65期・引退)や、現役のトップレーサーである平原康多(埼玉87期)も同じだ。

全盛時の伊藤さん、いや、晩年になっても眼光の鋭さが印象に残る。若手の選手だけでなく、新米の記者がたやすく近づける感じではなかった。しかし、一旦、話しをすればベテラン、新人の分け隔てなく取材に応じてくれる選手であった。タイトルこそ手にできなかったが、S級最年長優勝を飾ったり、頂点を極めたプロだからこそ人望も厚かった。
引退の理由は肝臓ガンだったと、聞いた。その後は治療をしながら元気に暮らしていたと思っていたのだが、死の直前にも手術を受けたらしい。容態が急変して戻らぬ人になってしまった。通夜と葬儀には選手、関係者、報道陣に混じり、ファンも集まり手を合わせた。記憶に残る選手は数多(あまた)いるが、1度は地獄に落ち、そこから頂点に這い上がった選手はそういない。それだけに印象が深いのだ。
強面だが根は優しい。理不尽なことは決して許さなかった。早すぎる死を惜しむ一方、息子の伊藤慶太郎(埼玉107期)がその意志を受け継ぎ、早くS級で活躍するところ観てみたい。死してなお、競輪界に喝を入れてもらいたいと思うのである。合掌__。

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