TOP > コラム > 心に残るベストショット Vol.15

コラム

一覧へ戻る

コラム

2018/12/26

Junko Shitara

心に残るベストショット Vol.15

心に残るベストショット Vol.15

競輪に携わって35年、今回は静岡競輪場です。
私が競輪の取材を始めた頃は“練習グループ”という言葉があって、選手の個別取材をするとなると「誰の(誰が師匠の)グループ」、「どこのグループの誰に声をかけるか」といった取材の道筋のようなものが存在。こうしたグループを率いていた師匠は面倒見の良い方が多かったし、強い選手を多く輩出している競輪場にはこうしたグループが大抵ありました。
岡山は特にグループがハッキリしていて、その中の一つが松本信雄さん(岡山・期前)を師と仰ぐ選手の集まりでした。松本さんはいかにも頼りがいのありそうなお父さんといった風貌で、私には温厚に見えましたが、強面の選手たちが言うことを聞いていたのですから厳しさも兼ね備えていたのだと思います。

この松本さんに師事して、デビューからメキメキと力をつけて、アッ!という間にタイトルホルダーになったのが、小橋正義さん(岡山→新潟59期・引退)でした。
小橋さんは体格に恵まれている訳ではありませんでしたけれども、突出していたのは師匠も呆れる……もとい驚く程の練習熱心さ。当時、よく一緒に練習していた選手の話しによりますと、水島コンビナートを臨む坂道を体力の限界ギリギリまで登り、最後はフラフラになって側溝に落ちたこともあったとか。
なぜ、そこまで自分を追い込めるのか本当に不思議です。強くなりたいという欲の前には疲れとか、飽きるといったことは入る隙がないのでしょうか?“ストイック”という表現で今は語られますが、そこには勝負に対する貪欲さがあると思います。お金とか地位や名声ではなく、自分がこうありたいと思う姿を追い求める欲です。そのためには時間も何もかも惜しいと、思わない。小橋さんの強さはまさにそこにあったと思います。

平成の鬼脚と言われた小橋さん、その異名は静岡競輪場のあの一戦につきます。
1994年(平成6年)静岡競輪場で行われた駿府ダービー決勝戦。それまでのタイトル戦では先行・捲りの機動力で戦ってきましたけれども、追い込み選手として開花しようとしていた小橋さんは決勝で井上茂徳さん(佐賀41期・引退)の後ろ3番手を選択し、第4コーナーから直線で一気に踏み込み、前の井上茂徳さんを含む2人を抜き去って優勝!初のダービーチャンピオンに輝きました。これこそキチンと、勝負の世界の段階を踏んだ下克上です。
当時、日本一の追い込み鬼脚・井上茂徳さんがその座を明け渡した瞬間でもありました。
加えて言えば、この時の小橋さんは初日1レースの1番車で、発走時刻が11時11分で1着になって、このラッキーナンバーのゾロ目で優勝への弾みがついたと、当時、大変な話題になったものです。

それから数年が経ち、小橋さんが岡山から新潟へ移籍すると、聞いた際はとても驚きました。玉野競輪場の周辺は街道練習には最適な鷲羽山(わしゅうざん)や玉野競輪場のバンクなど恵まれた練習環境。ましてや松本さんという師匠のいる岡山を離れる小橋さんの行動の意味が知りたくて、数落ち着いた頃に取材を申し込みました。もちろん、移籍した真意はなぜか?を知りたかったからです。
断られることを覚悟のうえで「自分の言葉で、ファンのみなさんに移籍の理由を説明しませんか」と、切り出しました。すると、意外にアッサリと、了承のご返事をいただけたのです。結論から言うと、大きな理由は“練習環境”でした。私には良く思えていた環境も、人間は慣れてしまえば駄目なのだと。そして、同じ運動を繰り返していると筋肉は慣れてしまい、心も慣れて緊張感を保てなくなって効果が薄れてしまうそうです。自分を追い込むためには慣れ親しんだ岡山を離れるという結論に至ったとのこと。
この行動を取れたことこそ最も小橋さんらしいと、今になっては思います。また、そこには師匠の親心があったから小橋さんはさらに躍進することができ、“平成の鬼脚・小橋正義”が誕生したのではないでしょうか。

強くあり続けるために移籍という手段を選んだことは、平成の競輪界を彩った名選手の1人である“小橋正義”を忘れることなく競輪史に留めておきたい。そう思い、選んだエピソードです。

【略歴】

設楽淳子(したらじゅん子)イベント・映像プロデューサー

東京都出身

フリーランスのアナウンサーとして競輪に関わり始めて35年
世界選手権の取材も含めて、
競輪界のあらゆるシーンを見続けて来た
自称「競輪界のお局様」
好きなタイプは「一気の捲り」
でも、職人技の「追い込み」にもしびれる浮気者である
要は競輪とケイリンをキーワードにアンテナ全開!

ページの先頭へ

メニューを開く