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2020/09/24

Yuji Yamada

“帝王”山田裕仁の競輪哲学 Vol.77

“帝王”山田裕仁の競輪哲学 Vol.77

伊東温泉競輪場で開催されたG2第36回共同通信社杯は中本匠栄(熊本97期)選手のビッグ初Vという結果で幕を閉じました。中本選手の4日間を、振り返っておきます。
初日の一次予選は山田英明(佐賀89期)選手の番手回りで、後ろは園田匠(福岡87期)選手という偶然にも決勝と同じ前後の並び。レースは先行する森田優弥(埼玉113期)選手を3番手から捲った山田選手を追走し、ゴール前では後ろの園田選手にも抜かれて4着ゴール。このレースでは何とか追走を果たした、という表現で良い内容でした。

2日目の二次予選Bは山﨑賢人(長崎111期)選手の番手回り。山崎選手が打鐘過ぎのカマシ先行で番手追走するも差せずの2着。
準決勝は自分でレースを切り開き、先行する清水裕友(山口105期)選手のインで粘って、番手を取り切りました。脇本雄太(福井94期)選手に捲られたものの、ゴール前で先清水選手を差して2着入線。このレースが今大会で一番、満足する内容だったと、中本選手自身も思っていることでしょう。


[準決勝、ゴール前で清水を差し切った中本]

そして、決勝戦。勝ち上がりの調子、派手さから脇本選手、新田祐大(福島90期)選手、松浦悠士(広島98期)選手に人気が集まる中、九州勢だけにラインができました。しかも4車という長いラインで、有利な戦いができるために「九州勢の中から優勝者を」という気持ちで、4人全員が心一つにして戦えたのではないでしょうか。

レースは山崎賢人選手が先行して、番手に山田英明選手。そして、3番手に中本選手、4番手を園田選手が固めました。カマシてくる脇本選手を止め、捲ってくる松浦選手に合わせて番手から山田選手が出ますが、松浦選手の上を新田選手がスピード良く捲ってきます。山田選手は自ら新田選手をブロックしにいきましたが、後ろの吉澤純平(茨城101期)選手が落車。山田選手は1着でゴールしましたが、失格判定となり、2着でゴールした中本選手が繰り上がりで優勝となりました。 

今回は『競輪VSケイリン』という決勝戦で、『競輪』に軍配が上がったのでしょう。以前から言っていますが、ビッグレースの優勝には当然、実力も必要なのですが、少しの運も必要だと思っています。中本選手は3年前、この伊東温泉競輪場で落車した際に頸椎を骨折して、選手生命の危機に陥りました。選手心理としては2度と走りたくなかった競輪場だったのではないでしょうか。
私も現役時代は熊本競輪場で落車すると、鎖骨骨折したり、肘を縫ったりなど、必ず大ケガになっていたので、その競輪場に参加することに抵抗があったことを思い出しました。そんな苦い思い出のある競輪場に勇気を持って参加してこなければ、優勝も無かったわけです。時代が平成から令和へ変わり、政治も安倍晋三政権から菅義偉政権へ変わったところで、中本選手の伊東温泉競輪場との相性も変わって、幸運が転がりこんできたということにしましょう。


[決勝進出を決めた直後、笑顔の中本]

今回の優勝は同じラインを組んだ仲間が失格になり、繰り上がり優勝ということで、心の底からは喜べないかも知れません。ですが、優勝という実績は残る訳ですから、それを無駄にしないように、今後のレースに繋げていっていただきたいです。

最後に失格になった山田選手ですが、あの動きは明らかに妨害行為です。落車させてしまった選手だけではなく、車券を買ってくれたお客様にも大変な迷惑を掛けました。猛省は必要でしょうが、あれをやらなければ新田選手に100%出切られていたことでしょう。タラレバはないのですが、同じ走りでも、もし落車がなければ山田選手は優勝でしたし、先行した山﨑選手の頑張りはあったものの、あの走りが逆に素晴らしいと絶賛される結果になっていたことかと。それが『競輪』ルール、落車がなければ許された結果になってしまうのです。本人にしてみれば勝つために、精一杯やった結果。そこだけは少し理解してあげても良いような気がします。

【略歴】

山田 裕仁

山田 裕仁(やまだ・ゆうじ)

1968年6月18日生 岐阜県大垣市出身
1988年5月に向日町競輪場でプロデビュー
競輪学校の同期で東の横綱・神山雄一郎(栃木61期)、西の横綱・吉岡稔真(福岡65期・引退)らと輪界をリード
“帝王”のニックネームで一時代を築いた
2002、2003年の日本選手権競輪(ダービー)連覇などG1タイトルは6つ
KEIRINグランプリ連覇を含む史上最多タイ3度の優勝など通算優勝110回
通算獲得賞金は19億1,782万5,099円。
2018年末、三谷竜生(奈良101期)に抜かれるまでは年間獲得最高賞金額=2億4,434万8,500円の記録を持っていた
自転車競技でも2001年のワールドカップ第3戦(イタリア)で銀メダルを獲得するなどの実績を残した
2014年5月に引退して、現在は競輪評論家として活躍中
また、競走馬のオーナーとしても知られる

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