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競輪

2018/05/07

Norikazu Iwai

不死鳥・市田佳寿浩

不死鳥・市田佳寿浩

その男の姿を久しぶりに見ることが叶う。市田佳寿浩(福井76期)は昨年3月に高松競輪場で開催されたG2ウイナーズカップの初日予選、最終バックで前の選手が落車し、それに乗り上げる形でバンクに全身を叩きつけられたことで右股関節周辺を骨折。ペダルを漕ぐのに一番重要な箇所を骨折してしまった。例え骨がくっついても固くなってしまえば、選手としては致命傷になる。それ以上に果たして普通の生活が送れるのかも心配された。
だが、市田の場合は骨がくっつくどころではなかった。人工関節を埋め込み何とか歩けるようになったが、競輪選手として復帰できるか危惧(きぐ)された。しかし、この男は蘇った。それも地獄の縁からだ。市田の地元は福井であり、福井競輪の記念は“不死鳥杯”のサブタイトルがつく。まさに不死鳥、引退を余儀なくされても仕方なかったピンチを自らの力で乗り越えた。
2010年のG1寛仁親王牌の決勝、脇本雄太が無欲の先行勝負で2番手の村上義弘が捲り、3番手の市田がゴール寸前で村上をかわしてのG1初制覇。余談になるが、この時、市田以上に泣いていたのが脇本だった。号泣とはまさにこのことで、何を言っているのかさえ聞き取れないほどだった。勝った市田も人目をはばからずに泣いた。村上の胸に飛び込んだ姿は今でも忘れられない。村上が1人で背負ってきた近畿の看板。市田がG1を勝ったことにより、近畿はツートップとなった。もとより彼のタイトル奪取は遅すぎたとも言える。
しかし、その後は度重なる落車のアクシデントが続く。満足できる走りができないまま時間だけが過ぎ去ったことで焦りはあっただろう。元来、真面目すぎる面も自分自身を追い込んでしまったかも知れない。それでも村上と共に、近畿の精神的支柱としての立場を忘れなかった。

高松の悪夢から1年以上が過ぎた。いつだったか休養中の彼と話す機会を得た。
「早く戦線に戻ってきて欲しい。それは私だけでなく、多くのファンが待ち望んでいます」
そう筆者が話すと、市田は
「まぁまぁ、大丈夫だから」
と、こちらの心配をよそに笑顔で対応してくれた。それは復帰の二文字が現実味を帯びてきてから、着々と歩を進めていたからだ。
今年の冬は例年にない大雪だった福井だったが、暖かくなって体も自然と動くようになってきた。一緒に練習をする選手が「市田さんは元気です。あの気力というのは言葉では言い表せない」とまで話していた。
そして、G1日本選手権競輪が終わり、5月7日から開催の地元・福井F1での復帰が決まった。文章にするのは簡単だが、本当に選手生命を脅かす大ケガだったのだ。残念なことに来期、7月からはA級に降級することが決まっている。市田がA級戦を走ることなど、誰が予測しただろうか。それ以前にA級という現実を受け入れられない。しかし、それは筆者を含めたファンサイドの言い分に過ぎない。A級だっていいじゃないか、彼の真摯な走りは変わらないはずだ。それにA級だって9連勝して特進を決めればいいだけだ。そして、何よりも市田がバンクを駆ける姿は本当に嬉しいことじゃないか。

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