TOP > 競輪 > 競輪ドキュメント第3回/小林莉子(東京102期)

競輪

2017/11/18

Joe Shimajiri

競輪ドキュメント第3回/小林莉子(東京102期)

競輪ドキュメント第3回/小林莉子(東京102期)

外出申請なしの競輪学校時代

「修善寺の環境が良かったんですかね!?とにかく虫だらけ。ムカデやら規格外にやたらデカイ」
競輪学校へ入学して、まず驚いたのは生息している虫の多さ、及び巨大さであった。小林は虫が苦手だったからだ。しかし、それ以上に厳しい現実も突きつけられる。それは女子1期生(102期)は自転車競技経験者と未経験者の力量差が大きかったということ。ほぼ初心者の小林は言うまでもなく後者で、入学直後の成績はかなり悪かった。

「強くなりたいか?」
小林に尋ねてきたのは担任だった関谷教官(敏彦/山口58期・引退)だ。
「強くなりたいですっ!!」
小林の即答に対して、関谷は「いくらでも練習に付き合ってやるから、それに応えてみせろ」と、それから寸暇を惜しまずに自由・休み時間、休日も小林の練習を見てくれることになった。
上(経験者)との差を詰めるには練習しかなかった。競輪学校は基本、日曜が休みで外出も可能だったのだが、小林は1回も外出申請を出さずに卒業した。
「デビューした時に戦えるなら、たかが1年くらいは耐えられる」
関谷も約束通り、練習をシッカリ見てくれた。結局、外出したのは強制的に寮から退去させられる帰省休み(お盆と正月)のみ。その束の間の帰省休みも練習に明け暮れる。
「師匠(富山健一/東京43期・引退)もマンツーマンで練習に付き合ってくれる方でした。競輪学校は座学の授業中に身体を休めたりできるんですけど、帰省時の師匠との練習は本当に朝から晩まで。ひたすらキツかった覚えしかなくて、本気で早く競輪学校に戻りたくて仕方なかった」
カレンダーにバッテン印をつけて、競輪学校へ戻ることを指折り数え、心待ちにしていたのは、きっと小林だけに違いない。
「本当にミッチリ、効率良く練習したと思います。あの時があったからこそ今があるって」
そう断言できるのは、約1年間、厳しい現実と真摯(しんし)に向き合い、努力を惜しまなかったからである。

初代女王ゆえの葛藤

競輪学校卒業後、デビュー節で、いきなり初優勝の栄冠を掴む。ガールズグランプリでは優勝して初代女王に。まさに華々しい競輪人生の幕開けだった。
「何も分からず、ただただ懸命に走っていただけ。ガールズグランプリでもガムシャラ、訳が分からないまま優勝していました」
しかし、ガールズグランプリ優勝を境にしてガラッと、小林の競輪人生が大きく変わる。
山口幸二(岐阜62期・引退)から「グランプリを獲った重さ、責任、プレッシャーがあるよ」とも言われた。その時は競輪界の大先輩の言葉に「そうなんですね」とは答えたけれども、現実味がなかったので軽く流していた部分もある。
「でも、山口さんの言われていたことがすぐに分かりましたね。まず、それまでの3〜4番人気から1番人気になりました」
オッズだけではなく、声援も大きなものに変わった。また、何よりもレースで勝てなかった時の野次が厳しくなった。これによって経験したことのない緊張、勝たなければいけないという重圧が増す。競輪選手として求められていることが変わったことを痛感しながらも、焦るだけで結果が伴わない。ルーキーイヤーとは対照的な空回りに、師匠からも「競輪はオフシーズンのないスポーツ、そんなんじゃ潰れるぞ」と、諭されるくらい散々だった。
「初代女王ということで、毎年のように新人の有望選手とも対戦させられる。負けたくない、負けられない……でも、自分らしいレースもしたい」
そんな葛藤もあったので少しばかり時間は要してしまったが、レースへの入り方やモチベーションの保ち方、メリハリが徐々につけられるようになる。自分の勝ち方が分かってきたことで成績も安定。さらには夏場に落ちやすかった(一気に5〜6kg)体重・体脂肪管理も苦労しなくなった。
「やっと吹っ切れた、楽しく走れるようになってきた」
小林に曇りのない笑顔が戻ってきた矢先、冒頭の悪夢が起こったのである。

1234

ページの先頭へ

メニューを開く